小論文の添削に思う:エドワード・W・サイード『知識人とは何か』

 小論文の添削をしている。
 さて、添削しながらいつも迷うことがある「筆者の意見に対して自分の意見を述べよ」という課題のとき、筆者に賛成すべきか、それとも反対すべきか(そしてそれをどう指導すべきか)。
 私自身が小論文を書くときは、決まって反対するようにしていた。どんなに素晴らしい意見を筆者が述べているように思われても、必ず反対していた。
 この行動の指針となった一冊の本がある。エドワード・W・サイード『知識人とは何か』(平凡社ライブラリー、1998年3月)。

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

 

 私にとってバイブル的一冊と言ってもいい。この休みに久々に読んだが、まだまだ学ぶべきところは多い。
 彼は言う。「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。」小論文を書く者もまた、一人の「知識人」として課題文に向き合う必要があるのではないだろうか。
 課題文とはいわば、一つの「権力」なのである。筆者は大抵、権威を持った文筆家や大学教授などであり、さらに言えばそれは広く一般大衆の意見を集約したものであると言える。その意見に唯々諾々と従うようでは、極言すれば小論文を書く意味は無い。小論文を書くものは、孤立した「アウトサイダー」としてその意見に対立した視座を呈示する必要がある。
 課題文の因習的なロジックに対して、いかに果敢に試みるか。その試みそのものに小論文を書く意義があるのではないだろうか。小論文を書く者は漂泊のアウトサイダーとならなければいけない。換言すれば、頼るべき「神」を持たない、「故国喪失者」であり、「周辺的存在」とならなければいけないのだ。なぜなら、神々はいつも失敗するのだから。この「いつも失敗する神々」こそ知識人の庇護者にして権威者でもある大衆であり、知識人の支配とは「大衆の叛逆」であると言える。大衆と同じ意見を述べるだけならば、小論文を書く意味は無い。だってそれは、他の人も分かっていることなのだから。そんな人に対しては、「分かり切ったことを偉そうに喋るな」と怒鳴りたくなるだろう。それと同じことだ。(自分の発表にそのままブーメランとなって返ってきて、心が痛い。)
 つまり小論文を書くとき、自分は何かに全面的に依拠・奉仕せず、世俗的に個人として生き、常にマイノリティの側に立たなければいけない。小論文とは、みずからを亡命者、故国喪失者として書く文章である。そのとき受験生は、孤立した「知識人」として解答用紙に向き合うのだ。

…みたいなことを考えているのだけど、これを生徒に求めたらまずいのかなぁ。あまり押し付けてもなぁ…。迷う。